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2008.10/13 [Mon]
はじまります
大和民族としての
真骨頂が試される時が来ました。
この国が滅びるか、滅びないかは、
これからに掛かっています。
大和民族としての誇りを忘れず、
最善を尽くして参りましょう。
真骨頂が試される時が来ました。
この国が滅びるか、滅びないかは、
これからに掛かっています。
大和民族としての誇りを忘れず、
最善を尽くして参りましょう。
- Tag List
- [日本人の心]
2008.08/29 [Fri]
日本人が、誇りをもって生きるために
私達は、日本人として、
どれだけ事実を知っているでしょうか…?
まず
韓国が、今だ日本に迫る
大東亜戦争時の賠償問題ですが、
1965年に
日韓基本条約が締結されました。
この日韓基本条約締結にあたり、
韓国政府には日本から、
個人補償分を含む
5億ドルが無償供与されています。
条約に付随する協約には、
両国・両国民間の『請求権に関する問題が (中略)
完全かつ最終的に解決された』と明記されました。
賠償とは、
戦争に勝った国が負けた国から取るものであって、
日本と韓国間で、戦争を行ってはいないのです。
日本は、5億ドルを支払い、果たすべき事を果たしています。
朝鮮半島の本当の歴史(The true history of Korea Peninsula)
http://www.youtube.com/watch?v=gDO55C8ZVrA
『本気で独立する気なら自分たちで全てをゼロからやり直さなければならない のが当たり前である。
独立というのは「本来なら相当な覚悟と努力の必要な選択肢」なのである。
しかし日本は、日本の海外資産だった『学校などの教育機関』『裁判所』
『上下水道』『公園』『病院』『警察署』『道路』『農地』『鉄道』……などなど、
日本が莫大な資産を投じて建設・整備し続けていた日本の財産をまるごと
朝鮮に与えているのである。
要するに文化的生活のための設備を一国分まるごと与えたようなものである。
(ちなみに北朝鮮では今でも併合時代に日本が建設した水力発電所が稼働している)
このような手厚い補償を行ったにも関わらず、
朝鮮人は日本の敗戦が 確定した途端に
「同じ日本人だった友を裏切り」手のひらを返して
日本人から略奪と暴行を始めたのである。
この略奪の規模は大きく、戦後も長く続いた。
日本側の被害は甚大である。
韓国に与えたものは一般によく言われるような2兆円どころではない。
政府と個人からの“賠償+設備+略奪”を併せてGHQが試算したところ 、
当時の約60億$、現在価格で最低に見積もって
なんと16兆円(当時の韓国の国家予算10年分以上)を置いてきたことになっている。 』
韓国は“なぜ”反日か?より。
韓国による歴史のねつ造は、はなはだしく、
クリスチャンの多い韓国の人々に、同じクリスチャンとして、
主の前に嘘はいけないと、申し上げたい気持ちです。
一例ですが、
韓国の人々は、
日本によってハングル語を奪われ、強制的に日本語の勉強をさせられたと言っていますが、
日本は、文盲だった多くの韓国の人々に日本語とハングル語で書かれた教科書を配布し、多くの学校を建てました。
The Korean truth 日韓併合前の韓国 朝鮮 チャングムの真実
http://www.youtube.com/watch?v=GHV5SY5GK6Y
そしてもうひとつ、
日本がアジアに残した功績の真実
http://jp.youtube.com/watch?v=Kiz7N4z7c3M&feature=related#
私達は、日本人として誇りをもって生きるべきです。
Youtubeをご覧になれない場合は…
PCサイトですが、
韓国は“なぜ”反日か?
が、大変参考になると思います。
※ 注 意 ※
反韓国や反朝鮮感情を煽るものではありません。
日本人として恥じることなく、
誇りをもって生きることに主眼を置いています。
私達の祖先がそうであったように…。
どれだけ事実を知っているでしょうか…?
まず
韓国が、今だ日本に迫る
大東亜戦争時の賠償問題ですが、
1965年に
日韓基本条約が締結されました。
この日韓基本条約締結にあたり、
韓国政府には日本から、
個人補償分を含む
5億ドルが無償供与されています。
条約に付随する協約には、
両国・両国民間の『請求権に関する問題が (中略)
完全かつ最終的に解決された』と明記されました。
賠償とは、
戦争に勝った国が負けた国から取るものであって、
日本と韓国間で、戦争を行ってはいないのです。
日本は、5億ドルを支払い、果たすべき事を果たしています。
朝鮮半島の本当の歴史(The true history of Korea Peninsula)
http://www.youtube.com/watch?v=gDO55C8ZVrA
『本気で独立する気なら自分たちで全てをゼロからやり直さなければならない のが当たり前である。
独立というのは「本来なら相当な覚悟と努力の必要な選択肢」なのである。
しかし日本は、日本の海外資産だった『学校などの教育機関』『裁判所』
『上下水道』『公園』『病院』『警察署』『道路』『農地』『鉄道』……などなど、
日本が莫大な資産を投じて建設・整備し続けていた日本の財産をまるごと
朝鮮に与えているのである。
要するに文化的生活のための設備を一国分まるごと与えたようなものである。
(ちなみに北朝鮮では今でも併合時代に日本が建設した水力発電所が稼働している)
このような手厚い補償を行ったにも関わらず、
朝鮮人は日本の敗戦が 確定した途端に
「同じ日本人だった友を裏切り」手のひらを返して
日本人から略奪と暴行を始めたのである。
この略奪の規模は大きく、戦後も長く続いた。
日本側の被害は甚大である。
韓国に与えたものは一般によく言われるような2兆円どころではない。
政府と個人からの“賠償+設備+略奪”を併せてGHQが試算したところ 、
当時の約60億$、現在価格で最低に見積もって
なんと16兆円(当時の韓国の国家予算10年分以上)を置いてきたことになっている。 』
韓国は“なぜ”反日か?より。
韓国による歴史のねつ造は、はなはだしく、
クリスチャンの多い韓国の人々に、同じクリスチャンとして、
主の前に嘘はいけないと、申し上げたい気持ちです。
一例ですが、
韓国の人々は、
日本によってハングル語を奪われ、強制的に日本語の勉強をさせられたと言っていますが、
日本は、文盲だった多くの韓国の人々に日本語とハングル語で書かれた教科書を配布し、多くの学校を建てました。
The Korean truth 日韓併合前の韓国 朝鮮 チャングムの真実
http://www.youtube.com/watch?v=GHV5SY5GK6Y
そしてもうひとつ、
日本がアジアに残した功績の真実
http://jp.youtube.com/watch?v=Kiz7N4z7c3M&feature=related#
私達は、日本人として誇りをもって生きるべきです。
Youtubeをご覧になれない場合は…
PCサイトですが、
韓国は“なぜ”反日か?
が、大変参考になると思います。
※ 注 意 ※
反韓国や反朝鮮感情を煽るものではありません。
日本人として恥じることなく、
誇りをもって生きることに主眼を置いています。
私達の祖先がそうであったように…。
2008.08/22 [Fri]
今、そこにある危機
「HARRP was used in Japan」
先日2008.7.23、Youtubeにおいて、この動画を見たのですが、この画像の意味するところは何でしょうか?
HARRPという『高周波活性オーロラ調査プログラム』というシステムであると、一般的には言われてますが、
一説によると、これが地震・人口地震の原因だと、最近いろいろなところで言われています。
そのため、HARRP稼働を監視している人達がいます。
この動画の説明には、英語と日本語で
「Appearance of earthquake weapons that the Meteorological Agency observed 気象庁が観測した地震兵器の痕跡です。 ... NWO CFR ...」とありました。
もし、これが本当ならとても恐ろしい事であり、
人間のする事ではないと思います。
先日2008.7.23、Youtubeにおいて、この動画を見たのですが、この画像の意味するところは何でしょうか?
HARRPという『高周波活性オーロラ調査プログラム』というシステムであると、一般的には言われてますが、
一説によると、これが地震・人口地震の原因だと、最近いろいろなところで言われています。
そのため、HARRP稼働を監視している人達がいます。
この動画の説明には、英語と日本語で
「Appearance of earthquake weapons that the Meteorological Agency observed 気象庁が観測した地震兵器の痕跡です。 ... NWO CFR ...」とありました。
もし、これが本当ならとても恐ろしい事であり、
人間のする事ではないと思います。
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- [Youtube]
2008.08/18 [Mon]
『焼き場に立つ少年』
焼き場に立つ少年

1945年 長崎 撮影 ジョー・オダネル
【やばいぞ日本】第4部 忘れてしまったものから
原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、
少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。
素足が痛々しい。
オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学館発行)でこう回想している。
「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。
小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。
少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。
わき上がる熱風にも動じない。
係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。(略)
私は彼から目をそらすことができなかった。
少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。
私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。
私は彼の肩を抱いてやりたかった。
しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
目撃者の眼 報道写真家 ジョー・オダネルから
1999年現在76歳になるジョー・オダネル氏は、アメリカ軍の
報道写真家として第2次世界大戦後の日本を撮った。
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に
血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、
沈黙のまま焼き場を去っていきました。
(インタビュー・上田勢子)
[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]
この写真と記事に出会った私達は、家族で号泣しました。
胸が締め付けられ、言葉にならない。
魂の奥底から嗚咽し、うめくように泣くだけでした。
これをご覧になった皆様には、何が届いたでしょうか…?
もう一つ…
是非とも読んで頂きたい記事があります。
それは…
【やばいぞ日本】第4部 忘れてしまったもの MSN産経ニュース
です。
そこに記されていた、戦後進駐軍として東京に来て、妹と二人で生きる靴磨きの少年と出会った、ジョージ・アリヨシ氏の話もまた、焼き場に立つ少年と同じく、日本人のもつ心を伝えていました。
日本人が持っている心とは、
『苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛…。』
だと言っています。
進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏からの手紙の一節を、この記事を書いた記者の思いと共にご紹介します。
『今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。
今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。
ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。
すべてのことは容易に手に入る。
そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。
義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」
凛(りん)とした日本人たれ。
父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。
こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、
今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。』

1945年 長崎 撮影 ジョー・オダネル
【やばいぞ日本】第4部 忘れてしまったものから
原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、
少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。
素足が痛々しい。
オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学館発行)でこう回想している。
「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。
小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。
少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。
わき上がる熱風にも動じない。
係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。(略)
私は彼から目をそらすことができなかった。
少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。
私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。
私は彼の肩を抱いてやりたかった。
しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
目撃者の眼 報道写真家 ジョー・オダネルから
1999年現在76歳になるジョー・オダネル氏は、アメリカ軍の
報道写真家として第2次世界大戦後の日本を撮った。
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に
血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、
沈黙のまま焼き場を去っていきました。
(インタビュー・上田勢子)
[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]
この写真と記事に出会った私達は、家族で号泣しました。
胸が締め付けられ、言葉にならない。
魂の奥底から嗚咽し、うめくように泣くだけでした。
これをご覧になった皆様には、何が届いたでしょうか…?
もう一つ…
是非とも読んで頂きたい記事があります。
それは…
【やばいぞ日本】第4部 忘れてしまったもの MSN産経ニュース
です。
そこに記されていた、戦後進駐軍として東京に来て、妹と二人で生きる靴磨きの少年と出会った、ジョージ・アリヨシ氏の話もまた、焼き場に立つ少年と同じく、日本人のもつ心を伝えていました。
日本人が持っている心とは、
『苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛…。』
だと言っています。
進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏からの手紙の一節を、この記事を書いた記者の思いと共にご紹介します。
『今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。
今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。
ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。
すべてのことは容易に手に入る。
そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。
義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」
凛(りん)とした日本人たれ。
父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。
こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、
今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。』
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- [日本人の心]
2008.06/13 [Fri]
忘れてはならない事
真実はどこに…
(Youtube動画です。)
この国の年間自殺者数、30,777名。
この数字が、いかに大変なものであるか、お解り頂けるでしょうか…。
一日に85名もの尊い命が、自死によって失われてしまっています。
ひきも切らない凶悪犯罪。
犯人の身勝手きわまりない動機で失われてしまった、尊い命達…。
この国の、政治も経済も目も当てられない状況が続き、
これから益々悪くなっていきます。
現在にも、将来にも希望が持てず、
自死者や凶悪犯罪を増加させてしまった この国の今を、
日本の将来を託し、愛する人達を守るために散っていった
彼らに見せられるでしょうか。
胸を張って、
今のこの国を、見せられるでしょうか…?
Youtubeを見られない方のために
内容を書き起こしました。
真実はどこに…
昭和19年、
祖父は、フィリピンにいました。
私と同じ23歳の祖父です。
フィリピンは日米の戦争に巻き込まれていました。
連日、海にはアメリカ艦隊の大群が 押し寄せたそうです。
ミッドウェー海戦以降の日本軍は
大東亜戦争初期の勢いはなく、
豊富な物資と強大な工業力をもつ
米軍に徐々に追い詰められていきました。
そんな中、昭和19年6月15日、
本土防衛のための重要拠点であった
サイパン島が米軍に攻略された。
これによりB29による本土爆撃が可能となった。
フィリピンは、日本と南方の石油をつなぐ
戦略的な要所であり、 米軍が獲得に動いた。
フィリピンを守る第一航空艦隊の、当時の戦力は、
零戦約40機しかなかった。
これだけの戦力では 通常の作戦では
どうしようもないということは 明らかと思われた。
大西中将はついに、
「零戦に250kg爆弾を抱かせて、体当たりをやるほかに、
確実な攻撃法はないと思うが どんなものだろう?」
と、体当たり攻撃を部下達に提案した。
この時、全員が両手を上げて この作戦に賛成した。
当時の戦況、そして搭乗員の士気というのは
そのようなものであった。
神風特別攻撃隊の編成
攻撃隊が編成された翌日、
戦闘機の整備兵をやっていた祖父に、
特別攻撃隊の友人が語った言葉です。
『 もう戦争は続けるべきではない。
しかし、敵を追い落とすことができれば
七分三分の講和ができるだろう。
アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。
歴史に見るインディアンやハワイ民族のように
闘魂のある者は次々各個撃破され、
日本民族の再興の機会は
永久に失われてしまうだろう。
このためにも
特攻を行ってでも
フィリピンを最後の戦場にしなければならない。
しかしこれは、九分九厘成功の見込みはない。
ではなぜ見込みのないのに この様な強行をするのか。
ここに信じてよいことがある。
いかなる形の講和になろうとも、
日本民族が将に亡びんとする時に当たって
身をもってこれを防いだ若者達がいた
という歴史の残る限り
五百年後、千年後の世に必ずや
日本国民は再興するであろう。 』
特攻した方の残した言葉…
「大空に雲は行き 雲は流れり。
すべての人よさらば 後を頼む。
征って参ります。」
「人は一度は死するもの。
微笑んで征きます。
出撃の日も そして永遠に。」
「イッテマイリマス。
ノチノニホンニ エイコウアレ」
………。
私が高校生の時、祖父とフィリピンに行きました。
神風特別攻撃隊をはじめ、戦没者の慰霊祭に参加するためにです。
フィリピンの方々が日本国旗を振ってくれました。
東南アジアの国々から常に
戦争の責任を追及されていると思い込んでいた私は
驚きました。
神風特攻隊は、戦後の日本では
“戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていません。
しかしフィリピンでは、捉え方がまったく違っていました。
式でフィリピンの方のスピーチです。
『当時、白人は有色人種を見下していました。
これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして
戦争に突入していったのです。
神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する 力による最後の“抵抗"だったといえましょう。
そして、アジア内で唯一、抵抗してくれたのです。
かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見て下さい。
立派に経済的繁栄を遂げているでしょう。
これは日本が統治下で施した“教育"の成果です。
ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、
自分たちでモノを作る事を学ばせてもらえなかった。
人々は鉛筆すら作る事ができなかったのです。
アメリカが自分たちの作ったモノを
一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした。
フィリピン人は、
日本で伝えられているような“反日”なのではなく、
むしろ親日的です。
フィリピンの人々は戦争に対しては
日本人よりもリアリストです。
戦争があれば多少なりとも悲劇はあると、
現実的な考え方をしています。
ですからフィリピンの人々は
日本を責めようなどとは思ってもいません。
フィリピン国歌にも、
「誉れ高い英雄達の生まれた国を崇めよ」
という一節があるくらいです。
欧米人のアジア観に多大な影響を与えた
神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ
そしてその勇気が称賛されている。
日本人はこうした現実も
認識する必要があります。
今、自由に発言できること
ご飯を食べられること、感謝しましょう。
そして日本人が日本を好きになってほしい。 』
じいちゃんは、小さい肩を震わせて
泣いていました。
私は一つ、真実を知ることができました。
(Youtube動画です。)
この国の年間自殺者数、30,777名。
この数字が、いかに大変なものであるか、お解り頂けるでしょうか…。
一日に85名もの尊い命が、自死によって失われてしまっています。
ひきも切らない凶悪犯罪。
犯人の身勝手きわまりない動機で失われてしまった、尊い命達…。
この国の、政治も経済も目も当てられない状況が続き、
これから益々悪くなっていきます。
現在にも、将来にも希望が持てず、
自死者や凶悪犯罪を増加させてしまった この国の今を、
日本の将来を託し、愛する人達を守るために散っていった
彼らに見せられるでしょうか。
胸を張って、
今のこの国を、見せられるでしょうか…?
Youtubeを見られない方のために
内容を書き起こしました。
真実はどこに…
昭和19年、
祖父は、フィリピンにいました。
私と同じ23歳の祖父です。
フィリピンは日米の戦争に巻き込まれていました。
連日、海にはアメリカ艦隊の大群が 押し寄せたそうです。
ミッドウェー海戦以降の日本軍は
大東亜戦争初期の勢いはなく、
豊富な物資と強大な工業力をもつ
米軍に徐々に追い詰められていきました。
そんな中、昭和19年6月15日、
本土防衛のための重要拠点であった
サイパン島が米軍に攻略された。
これによりB29による本土爆撃が可能となった。
フィリピンは、日本と南方の石油をつなぐ
戦略的な要所であり、 米軍が獲得に動いた。
フィリピンを守る第一航空艦隊の、当時の戦力は、
零戦約40機しかなかった。
これだけの戦力では 通常の作戦では
どうしようもないということは 明らかと思われた。
大西中将はついに、
「零戦に250kg爆弾を抱かせて、体当たりをやるほかに、
確実な攻撃法はないと思うが どんなものだろう?」
と、体当たり攻撃を部下達に提案した。
この時、全員が両手を上げて この作戦に賛成した。
当時の戦況、そして搭乗員の士気というのは
そのようなものであった。
神風特別攻撃隊の編成
攻撃隊が編成された翌日、
戦闘機の整備兵をやっていた祖父に、
特別攻撃隊の友人が語った言葉です。
『 もう戦争は続けるべきではない。
しかし、敵を追い落とすことができれば
七分三分の講和ができるだろう。
アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。
歴史に見るインディアンやハワイ民族のように
闘魂のある者は次々各個撃破され、
日本民族の再興の機会は
永久に失われてしまうだろう。
このためにも
特攻を行ってでも
フィリピンを最後の戦場にしなければならない。
しかしこれは、九分九厘成功の見込みはない。
ではなぜ見込みのないのに この様な強行をするのか。
ここに信じてよいことがある。
いかなる形の講和になろうとも、
日本民族が将に亡びんとする時に当たって
身をもってこれを防いだ若者達がいた
という歴史の残る限り
五百年後、千年後の世に必ずや
日本国民は再興するであろう。 』
特攻した方の残した言葉…
「大空に雲は行き 雲は流れり。
すべての人よさらば 後を頼む。
征って参ります。」
「人は一度は死するもの。
微笑んで征きます。
出撃の日も そして永遠に。」
「イッテマイリマス。
ノチノニホンニ エイコウアレ」
………。
私が高校生の時、祖父とフィリピンに行きました。
神風特別攻撃隊をはじめ、戦没者の慰霊祭に参加するためにです。
フィリピンの方々が日本国旗を振ってくれました。
東南アジアの国々から常に
戦争の責任を追及されていると思い込んでいた私は
驚きました。
神風特攻隊は、戦後の日本では
“戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていません。
しかしフィリピンでは、捉え方がまったく違っていました。
式でフィリピンの方のスピーチです。
『当時、白人は有色人種を見下していました。
これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして
戦争に突入していったのです。
神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する 力による最後の“抵抗"だったといえましょう。
そして、アジア内で唯一、抵抗してくれたのです。
かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見て下さい。
立派に経済的繁栄を遂げているでしょう。
これは日本が統治下で施した“教育"の成果です。
ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、
自分たちでモノを作る事を学ばせてもらえなかった。
人々は鉛筆すら作る事ができなかったのです。
アメリカが自分たちの作ったモノを
一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした。
フィリピン人は、
日本で伝えられているような“反日”なのではなく、
むしろ親日的です。
フィリピンの人々は戦争に対しては
日本人よりもリアリストです。
戦争があれば多少なりとも悲劇はあると、
現実的な考え方をしています。
ですからフィリピンの人々は
日本を責めようなどとは思ってもいません。
フィリピン国歌にも、
「誉れ高い英雄達の生まれた国を崇めよ」
という一節があるくらいです。
欧米人のアジア観に多大な影響を与えた
神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ
そしてその勇気が称賛されている。
日本人はこうした現実も
認識する必要があります。
今、自由に発言できること
ご飯を食べられること、感謝しましょう。
そして日本人が日本を好きになってほしい。 』
じいちゃんは、小さい肩を震わせて
泣いていました。
私は一つ、真実を知ることができました。
- Tag List
- [Youtube]
2007.10/26 [Fri]
* 月の名前 *
月には、沢山の呼び名がある。
それぞれに意味があり、時がある。
日出づる国の先人達が愛した月…。
風に揺れるすすきの上に
今宵も月は ほのかに明るい。
新月、半月(上弦)、満月、半月(下弦)、朔、
二日月、既朔、三日月、上弦の月、九夜月、
十三夜月、小望月、幾望、十五夜、十六夜月、
既望、立待月、居待月、寝待月、更待月、
下弦の月、二十三夜月、二十六夜月、晦日月、夕月、
宵待月、宵月、有明月、暁月、既朔、
繊月、眉月、半月、上弦の月、弓張月、
小望月、幾望、望月、既望、下弦の月…。
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そこにある「月読」と書かれたカレンダーで、
今日の月の満ち欠け、呼び名がわかります。
(※呼び名は表示されない日もあります。)
それぞれに意味があり、時がある。
日出づる国の先人達が愛した月…。
風に揺れるすすきの上に
今宵も月は ほのかに明るい。
新月、半月(上弦)、満月、半月(下弦)、朔、
二日月、既朔、三日月、上弦の月、九夜月、
十三夜月、小望月、幾望、十五夜、十六夜月、
既望、立待月、居待月、寝待月、更待月、
下弦の月、二十三夜月、二十六夜月、晦日月、夕月、
宵待月、宵月、有明月、暁月、既朔、
繊月、眉月、半月、上弦の月、弓張月、
小望月、幾望、望月、既望、下弦の月…。
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